【ウマ娘】アニメ Season 2 第12話 参考レースなど

菊花賞|1993年11月07日 | 競馬データベース - netkeiba.com

 以下、ビワハヤヒデ - Wikipediaより引用

 日本ダービーの後、他の有力馬は夏の間の休養に入ったが、ビワハヤヒデ栗東に残り調教が続けられた。秋になって本格的な調教が始まるに当たり、浜田は切れ味に課題が残るビワハヤヒデに対し、ウイニングチケットナリタタイシンに負けない瞬発力を身に付けさせようとハードトレーニングを行うことを決意。そこで浜田は、ビワハヤヒデが惜敗した皐月賞東京優駿を前年無敗で優勝し、この年の5月に亡くなった戸山為夫の徹底した坂路調教で鍛えられたことで知られるミホノブルボンに倣い、従来の坂路2本を週6日というスケジュールを水・金・日曜日は3本に増やすというものに変更した。当初ビワハヤヒデは苦しがる様子を見せ、3本追いの3本目には馬場入りを嫌がり動かなくなってしまうこともあったものの、やがて調教タイムが如実に向上するなど成果が現れていった。結果的にこのハードトレーニングが功を奏し、ビワハヤヒデはがっしりとした馬体に成長した。その一方で、ビワハヤヒデは物音に対して臆病な面があったことから耳覆いのついた赤いメンコ(覆面)を着用していたが、浜田と岡部の話し合いによって「外部との接触を多く持たせることによって、勝負に敏感に反応させようという狙い」から外されることが決まり、耳の部分に徐々に穴を開けていき、2週間で完全に取り外された。
 デビュー以来初めて素顔での出走となった秋初戦・神戸新聞杯菊花賞トライアル)では、ナリタタイシンウイニングチケットが出走しなかったため、単勝オッズ1.6倍で1番人気に支持された。レースは好スタートを切って先頭に立ったネーハイシーザーの2番手後ろにつけ、直線に入ると岡部の鞭に好反応を見せて残り150m地点でネーハイシーザーを交わし、同馬に1馬身半差をつけて勝利した。
 三冠最終戦菊花賞では、春の「三強」のうちナリタタイシンが前哨戦を前に発症した肺出血の影響から不調で、京都新聞杯を勝ってここに臨んだウイニングチケットビワハヤヒデの一騎討ちと見られた。当日は初めてウイニングチケットを抑えての1番人気に支持される。レースでは道中は3番手を進み、第3コーナーを回った辺りから前方への進出を開始し、4コーナーから最後の直線に入ったところで先頭に立つと、そのまま加速して後続を突き放し、2着のステージチャンプに5馬身差をつけて優勝。クラシック最後の一冠を獲得した。走破タイム3分4秒7は前年の勝ち馬ライスシャワーが記録した芝3000メートルの日本レコードを0秒2更新し、上がりタイムの34秒5は当時の菊花賞史上最速の数値だった。ビワハヤヒデと共に、浜田・中島もこれがGI競走初制覇であった。浜田は後にこの菊花賞について、ビワハヤヒデが1番人気に支持されていることを聞いた時点で「勝てる」と確信したといい、「涙は出ませんでした。とにかくうれしかった。やるべきことはすべてやって、その結果が出たわけですから」と振り返っている。

  ビワから10秒弱遅れて17着のナリタタイシンは、上に記述のある通り肺出血のため調整が上手く行かなかったようですね。そしてそこから更に30秒遅れて最下位のネーハイシーザーは、レース中に心房細動を発症しています。翌年の天皇賞(秋)を勝つ馬です。それと念の為競馬初心者さんで気になる方もいるかもしれないので書いておくと、京都新聞杯は2000年に秋から春の開催に変更されています。

 

京都大賞典|1993年10月10日 | 競馬データベース - netkeiba.com

 史実ではこれがマックイーンのラストランです。2着に下したレガシーワールドは次走でジャパンカップに勝つ馬です。故障さえなければ、まだまだやれたでしょうね。

 マックイーンが発症した繋靭帯炎については以下のリンクを参照。繋靭帯、手持ちの医学書調べても載ってなかったんで、ホモサピエンスには無い器官だと思われます。その辺のウマ娘ホモサピエンスの解剖学的な違いについてアグネスタキオンの話を聞いてみたいところです。

繋靭帯炎 - Wikipedia

繋靭帯炎 | 競走馬 Light & Easy

 

 [あらすじ]

第13話「夢をかける」

メジロマックイーンとの約束を果たすためトレーニングを重ねるトウカイテイオー。無理かもしれない。でもやるしかない。そんな彼女を全力でサポートする<スピカ>の面々。そして有馬記念当日、強豪を相手に苦しいレースの中、必死に喰らいつこうとする彼女の夢の行方は――。